『主よ、信じます・・・・』大斎節第四主日説教から

司祭 ぺテロ 浜屋憲夫

 福音書からお話をしたいと思います。ヨハネによる福音書の九章一節から。イエス様が生まれつき目がみえない方の目を見えるようになさった話です。

 私は、このお話については、忘れられない思い出があります。先ず、そのことからお話をしたいと思います。たしか、私が下鴨の教会の牧師になってすぐのころではなかったかと記憶しているのですが、礼拝部に属していまして、聖歌集の改訂の仕事とかオーガニスト研修会の企画とかに一生懸命になっていた時期がありました。そういう中、横浜教区のオーガニスト研修会が素晴らしいということを聞いて、清里で行なわれた横浜教区のオーガニスト研修会の見学に行った時のことでした。

 その研修会は構成といい、参加者の関わり方といい、確かにとても素晴らしいもので、礼拝部の仕事としては、本当に参考に、参考になるものだったのですが、私にとって忘れられない出来事というのは、そのこととはまた別のことでした。その研修会の中に参加したオーガニスト達が順番に前に出て公開レッスンを受けるというプログラムがありました。その出来事は、その中でのことでした。公開レッスンというのは、参加者は非常に緊張するものです。また聞いているものも、また緊張致します。そんな雰囲気の中、順々にレヅスンがすすんでいきまして、一人のおじいちゃんの方が出て来られました。参加者の殆どは女性で、また比較的に若い方が多かつたので、おじいちゃんの方が出ていらしやっただけで、皆は「おお!」と思ったのですが、よく見ると盲人の方のようなのです。どなたかに手をひいてもらって出てこられました。レッスンは、清里の教会の聖堂で行なわれたのですが、そこにはリードオルガンと小さなパイプオルガンが置いてありまして、参加者はどちらでも選べるようになっていました。そのおじいちゃんの方は、(後で清水さんという方だとわかりましたが、)リードオルガンの方を選ばれました。そして、レッスンの曲を弾き始められました。忘れられない出来事が起こったのは、その時でした。その清水さんの弾かれるリードオルガンの音が、何ともいえない音だったのです。決してバリバリ弾かれるのでもない、技巧的に特に優れているわけでもない、たんたんと弾かれるのですが、本当に心を打つ音でした。あえていうならば、『真実の音』とでも言ったらよいのでしようか。本当に心と音が一つになったような、そんな音が響いてきたのです。聞いているうちに涙がでてくるのです。その涙がとまらない。古今聖歌集の中の曲でした。どの曲だったか思い出せないのですが、皆良く知っている曲でした。別に悲しい曲ではないのですが、清水さんの弾かれる古い小さなリードオルガンからでてくる音を聞いているだけで涙がでてきてしょうがないのです。そして、こんなに泣いていたらカッコ悪いなと思って周りを見渡したら、みんな泣いている。みんなすすり泣いて清水さんのオルガンを聞いているのです。上手いとか、美しいとか、素晴らしいとかというのではないのです。音が鳴っていて、聞いていると、その音が、私たちの心の一番深いところまで、スーと入ってきてしまう。そして、涙がでてしまう。そんな感じなのでした。

 仏教では、キリスト教の愛にあたる言葉を「慈悲」というそうです。そして、この慈悲という言葉は、「大悲」ともいうそうです。両方とも、「悲」という字が入っています。カトリックの井上洋治神父さんという、キリスト教の日本的理解に一生捧げた方がいらっしゃいますが、その方はこの「慈悲」、「大悲」の「悲」とキリスト教の「愛」とを合わせた「悲愛」という言葉を提唱していらっしゃいますが、本当に真実なものは、皆悲しみの彩りをもっているようです。

 その公開レッスンの講評と指導をしていたのは、鈴木隆太さんという若いけれどもとても有能なプロのミュージッシャンでしたが、彼も泣いている。彼のコメントは、確か、「教会のオルガンの前に五〇年間座り続けられた方の音ですね。」というようなものだったと記憶しています。

 この清水さんという方は、横浜教区では有名な方だったらしいのですが、私は今でも、あの出来事は何だったんだろうと、ことある事に思い出しますその研修会の中で、清水さんの信仰の証を聞く機会がありました。十代後半くらいの中途失明だったそうです。中途失明の絶望の中から、オルガンによって救われたと語られたように記憶しています。そして、その証の中で引用されたのが、このヨハネ九章の言葉でした。

  『イエスはお答えになった。
    「本人が罪を犯したからでも、
        両親が罪を犯したからでもない。
        神の業がこの人に現れるためで
        ある。」

 それ以来、私はこの箇所を読むごとに、清水さんのあの出来事を思い出すのです。確かに、神様は清水さんに、中途失明という大きな試練を与えられましたが、清水さんは信仰生活の中で、見事にオルガンで神様の栄光を現すようになられたのですね。清水さんは、まことに神様の業が現わされる器になられたのです。

 少しだけ清水さんの話を紹介してから、聖書のテキストの話に入ろうと思っていたのですが、随分長くなってしまいました。何かもうこれで今日はお話をやめても良いようにも思うのですが、もう少しお話をしたいと思います。

 今のお話は私自身が、盲人の方の自分の人生、信仰の歩みとこの聖書の盲人の癒しの話を重ね合わせて語られるお話を聞いた時のことなのですが、私がいつも皆様に紹介しています、加藤常昭という先生も、ご自分の説教集に、今の私の誘と似たお話を書いておられました。それは、この加藤先生が、ある研修会に講師として招かれた時の話でした。その研修会というのは、参加者が皆盲人の方々という講習会だったのです。そして、加藤先生はその講習会で、『ほとんど、あっけに取られる思いで聞いたき言葉があった。』と言われるのです。どんな言葉かというと、次々と参加者の方々が出てきて信仰の証をされたのだけど、どの方もどの方も皆このヨハネ九章の話をなさったというのです。

 私たち見えるものがこの箇所を読むのと、盲人の方々がこの箇所を読まれるのと、その思い入れがどんなに違うのかということかと思います。

 そして、加藤先生はこのエピソードに加えてこんなことを書いておられるのですが、このことはやはりこの聖書の言葉を味わう上で本当に大切なことであると思いますので、皆様にも紹介したいと思います。どんなことかといいますと、その次から次へと出てくる方々は、先ほど申し上げましたように皆盲人の方々なのです。私の忘れられない経験の清水さんもやはりそうなのです。しかし、良く考えると聖書の話では、盲人は癒されて、見えるようにされているのです。それだからこの聖書の話は成り立っているのです。しかし、清水さんの目も、加藤先生が出会われた盲人の方々の目も実際は、見えるようにはされていないのです。しかし、その方々が、皆「私に置いて神様の業が起こった」と語られる。これは、一体どういうことなのかと加藤先生はおっしゃるのです。ここのところは本当に良く考えなければならないところであると思います。 

 このことについて、私には二つの話が思い出されました。一つは、イエス様が十人の重い皮膚病を持っている人を癒された時、感謝するために戻って来たのはたった一人だったという話。もう一つは、本日朗読した箇所の最後に記されていた、イエス様と、この盲人の短い対話です。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼らは答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。

 ヨハネの福音書は、イエス様の癒しとこの対話の間にいろいろエピソードを挟んでいます。イエス様の力ある業は、ユダヤ人の間で評判になり、それ故にイエス様は、だんだんとユダヤ人達に憎まれるようになっていきます。そして、イエス様の業を妬み、憎んだファリサイ派の人々に、この人は自分の目を治してくれたのはイエス様だと言ったが故に追い出されてしまう羽目になってしまっています。そんな経緯の後にこの人はイエス様と再会しました。そして、「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」という言葉を聞きます。その言葉を聞いた彼は、即座に「主よ、信じます」と言ってひざまずいたのです。

 この人にとって、イエス様のこの言葉を聞くまでは、目の癒しは、目の癒しにすぎなかったのですね。しかし、イエス様と再会して、この言葉を聞いた時から、二の人は心の癒しも受けたのだと思います十人の内只一人感謝しに帰って来た、重い皮膚病の人もやはりそうだと思います。

 この人に神の業が現れたのは、目が見えるようになった時ではなく、やはり「主よ、信じます」とこの人が言った時であると思うのです。そして、清水さんのオルガンの音が、あれだけ人の心を打つのも、やはりあの音が、「主よ、信じます」というところから出てくる音だったからであると思うのです。                                                              アーメン

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