聖霊降臨後第十八主日敬老の日記念礼拝説教

司祭 ペテロ浜屋憲夫

ある牧師さんがスイス人の内科のお医者さんであり、また独自の精神療法家でもあったポール・トゥルニエという方の説として、人生を自然の四季に譬える考え方を紹介していらっしゃいました。それをまた紹介致します。

 先ず、春。春は、020歳。この時期は人生の中にあって、準備の期間。将来や仕事のことを準備する学生の時代。

 次に、夏。夏は、2040歳。この時期は、活動の期間。社会で活動したり、結婚・出産。育児に携わる時代。

 そして、秋。秋は、4060歳。これは収穫の期間。活動の結果を収穫する時代。

 最後が、冬。冬は6080歳。これは、成熟の期間。人生の中で一番の成熟を迎える時期

 こんな風に人生の期間を、春夏秋冬にわけていらっしゃるのですが、私は、この人生の年齢による季節分けを読んで、一瞬、ギクリとしました。それは、私は今57歳なのですが、この人生の季節わけの表によりますと、私は人生の秋も本当に深まり、殆ど秋の終わりにいる。私の人生は、あと三年で人生の冬の季節に入ることになっているのです。

 私の自己認識ですと、大体秋の入り口くらいかなという感じがしていたのですが、57歳が秋の終わりの直前だというのには驚きました。「そうか、学校で『おじいちゃん』と生徒に言われるのも、私の白髪のせいだけではないな」と思ってしまったのでした。

 もちろん、この分類はある人が考えただけのもので絶対のものでは、決してありませんし、また本当は、一人一人の人によってこの季節の区分けの年齢は随分と違うのではないかと思いますが、幾分かの常識的な妥当性はあるのでしょう。私の人生は、秋も深まり、もう霜も降り始める季節にあり、人生の収穫も殆ど終わってしまっているのかと思いますと、なにか感無量になってきたり、逆に、こんなことで良いのだろうかと焦ってしまうような気持ちにもなってきます。

 人はみなどこかの期間に属して、それぞれがそれぞれの人生のどれかの季節を歩んでいるんですね。昨日は、平安女学院の学園祭だったのですが、普段の制服の学生たちと違って、思い思いの衣装をつけて、のびのびと劇やダンスをしている学生たちは、まさに「春」の季節に咲き乱れる花々のように見えたものでした。そして、そんな綺麗な花々を見ている自分は、彼女たちが今いる季節にはやはりいないのだということを思い知らされるのでした。

 そのようなことを考えていますと、こんな風に人生を四季に譬えること自体、若い人たちはしないのではないか、人生を四季に譬えるという考え方自体が、もう人生が終わりに近づいてきた人たちが考えることではないかと思われてきました。自分自身のことを考えても、若い時は、なにしろ今を生きることに精一杯で、人生の四季なんぞということなんか考える余裕もありませんでした。

 そして、いろいろ考えてみますと先ほど57歳が人生の秋も終わりなのだということに驚いたと申し上げましたが、驚いたことは本当なのですが、しかし、私は、じぶんが57歳という年齢になっていることについては、自分は決して嫌だとは思ってはいないということにも気がつぎました。

 いや、嫌ではないどころか、よく.自分がこの年齢まで生きてこれたと感謝し、祝福を感じているのですね。それは、私が若い頃から、生きるということが上手くなかったからではないかと思っています。思春期ごろから、自分の生きかたになにかぎこちないものがあることを感じていましたし、何かいつも切羽詰って追い詰められているように感じていました。それは、神学校に入る30歳ごろでも続いていたと思います。

 神学校をでて牧師になってから、殆ど自分の苦手なことばかりやってきました。人と会うこと、説教すること、幼稚園の経営、学校という組織の中で生きること、等々。

 しかし牧師になってそのような自分のやりたくないことを、引き受けるという生き方を選択して、20年以上やって来ているうちに、人生の夏の季節が過ぎて、秋に入り、いまや晩秋にいるのですが、自分が若い頃に願ったこと、願った生き方が、ちゃんと実現しているように思えてならないのです。もっと正確にいいますと、今自分が実現しているような生き方を、若い頃から無意識に自分は願っていたのではないかと思うのです。

 そのように、私は今の時点で自分の人生を振り返り、その意味を探っているのですが、そのような規点、ものの見方は、教会に集まる私たちの中心的な課題である「信仰」、神様

を知るということを考える時にも、とても大切な考え方なのではないかとも思っています。

 神様を知る方法にはいろいろあります。「ビビっと」啓示を受ける、聖書を読んで御言葉に思いをめぐらす黙想の中で神さまと出会う、一体になる等々、いろいろあるのですが、その中にあって自分の生きてきた人生を、振り替えるというのも大切な神様を知る方法なのですね。

 聖パウロは、自分の人生のことを、『母の胎内にいるうちから聖別されていた』、と語っています』自分の全生涯が、イエスの使徒となるために備えられていたというのです。もちろん、イエスを知る前の自分、知る前どころか、イエスの弟子たちを迫害していたころの自分も含めて、生まれる以前から自分は、イエスの使徒となるように定められていたのだといいます。

 これは、聖パウロが始めからそう思っていたわけではなく、聖パウロが、回心の出来事のあとに得た考え方、多分回心の出来事から相当たった、ある程度の年齢なって自分の生きてきた道を振り返って得た考え方、信仰なのではないかと思います。

 自分の人生をあれこれ振り返ると、どう考えてもそこに神様の導き、決められていたことがあつたとしか思えないことがあるのですね。そのように自分の人生を振り返り、その中に神さまを見ることを、『摂理』を見るというのですね。

 そして、これが、今日一番言いたいことなのですが、この自分の人生に『摂理』を見るという神様の知り方こそ、先にあげました他の神さまを知る方法と違って、若い時よりも、年齢を重ねてからの方がズット上手に出来るのです。

 人生の春や、夏にいる人は、その時その時に一生懸命で振り返っている暇なんかないんですね。しかし、人生の秋に入った人、また冬の季節を生きる人こそ、人生を振り返り、その中に神様の摂理を感じる、見ることを許された人なのですね。

 先ほども申し上げましたが、私はそん意味で自分がこの年齢57歳にまでなったことを本当に嬉しく思うのですね。

 私は、学校のチャプレンとして教職員の方々に誕生日カードを差し上げるのを仕事にしていましたが、ある年齢以上になると、皆さん嬉しくないのですね。

 しかし、私はそういう段階もあっても良いかもしれないけど、やはり、ある年齢以上になって、自分が年を加えていくことが喜びにならない人生は、ちょっと寂しいのではないかと思うのです。

 高齢になって、自分の人生を振り返へり、あの時この時に自分は気がついていなかったけど、神さまが導き、助けて下さっていためだと思えることは、何と幸せなんだろうと思うのです。

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