神様の顔と背中 (出エジプト記3115)

司祭 バルナバ 小林さとし
 背中を見て育つとか、背中が語るとか、背中にはその人の生き様があらわれることがある。
 私の好きな聖書学者が、神様には表と裏があると言っています。つまり顔と、背中だと言うのです。面白い発想です。顔はおっかない神様、時には裁く神様が象徴され、平和や優しさは神様の背中の部分だというのです。そしてイエス様は神様の背中の部分つまり平和や優しさ、もっといえば力をなくしていた人が、再び立ち上がる、元気になる神様の力、慰めや励ましの部分を生き抜いた方だというのです。
 神様の背中に励まされたモーセの召命物語を見てみましょう。モーセが神様から、同胞であるイスラエルの人々を救い出せと命じられた箇所であります。モーセにとってはかつてエジプトで同胞を救おうとして挫折し、ミディアンの地に逃れてそこで寄留の生活をしていたわけですが、結婚し子どもも出来、幸せに過していました。しかし神の召し出しは余りに無謀で、モーセには理解できず、それを拒否するしかありませんでした。神の召し出しは次のようなものです。
 「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
モーセでなくても即答できるほど簡単な召し出しの内容ではありません。何故わたしが、何故と、そう何度も問い返したことでしよう。
 神の答えは「わたしは必ずあなたと共にいる」でした。「わたしは・・・・いる」という言葉は実はその後に出てくる神の名「わたしはある」という言葉と同じで、ヘブライ語で「エフイエ」と言い、やさしくささやくような発音の言葉です。神の名はその後に「主」、つまり「ヤーウェ」という名も出てきますが、この「ヤーウェ」という神の名は旧約聖書に6823回出てきますが、「エフイエ」という神の名は1回しか出てきません。私の好きな学者さんは「ヤーウェ」が神様の表の顔で、「エフイエ」が神さまの背中を表わしていると言うのです。実はこの「エフイエ」(わたしはある)という言葉を聞いた直後モーセは「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。」と応えているのです。つまりやさしい神様のささやきがモーセの心を変えたのです。私達は正面から何度も神様と向き合う時には拒否反応を起こしがちになりますが、一度神様の背中を見てしまうと、何かすべてが理解できるような気がするのです。神様の思いや神様の愛を。背中が語るとは、ささやきのようなものかもしれません。しかしそのささやきは人を動かすのです。私達が主(ヤーウェ)よ、と祈る時、「わたしはあなたと共にいますよ」(エフイエ)とのささやきの声が私達にも聞こえ、私達に再び立ち上がる力を与えてくださいますように。
 
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