信じるようになるために 〜ヨハネのしるし理解〜
ヨハネ1423-29

司祭バルナバ 小林さとし
  私たちは目に見えるものを信じて生きています。はっきりと確認できるからこそ、信じられ、信頼し、安心出来るからです。例えば言ったことが具体的に聞いてもらえたり願っていたことが実現したりすると信頼の気持ちがより確かなものになります。ところが言っても聞いてもらえず、願っても裏切られるようなら信じることが出来なくなります。
 実際私たちは信じること抜きに生きることが大変難しい生き物です。いや極端な話、信じることなしには一瞬たりとも生きることが出来ないくらい、信じるということと密接に関係して生きています。そこで信じることについての聖書のメッセージに耳を傾けてみたいと思います。
福音書に描かれている奇跡はしばしば人々がイエスを信じるきっかけとなっています。しかしこの場合でも福音書は信じることにおいて奇跡に慎重さを持たせています。
ヨハネによる福音書以外の福音書(共観福音書)では、「奇跡と不思議な業」は基本的に「しるし」と区別されていて、それだけ「奇跡」の意昧が限定されて描かれています。ところがヨハネによる福音書の描く「しるし」には、共観福音書の「奇跡や不思議な業」に相当する奇跡理解と共通するところがあり(32節、916)、しかも、その奇跡理解はより広い象徴性を与えられています。
 ヨハネによる福音書で心をとめたいのが、通常の不思議な業としての奇跡を示す場面で、イエスはそれを見て信じることに否定的なのです(223節〜、448節〜)。超自然的な奇跡の力をイエスの神性証明・メシア証明として用いる場合、しるしは否定されるわけです。逆に、十字架と復活の光の下でイエスの真相を顕現させるようなしるしは肯定されています(2031)
 ヨハネによる福音書ではイエスの存在そのものがまさに神の栄光のしるしとして描かれています。そして不思議な業としての奇跡に惑わされないように、しっかりと神の思いに心を向けないさいと語られているのです。
 ヨハネによる福音書は生前のイエスの遺言を記しています。1429「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、そのことの起こる前に話しておく」。31b「さあ、立て。ここから出かけよう」。
 私達に何か事が起こった時、「さあ、立て。ここから出かけよう」と私達に語りかけられるイエスの言葉が聞こえるように、そんなイエスの熱い思いが伝わってきます。私達の一方的な思いで信じ生きようとする時には聞こえないかもしれません。神の栄光のしるしであるイエスの思いに耳を傾け自分を振り返る時、私達は信じて立ち上がる者とされるのです』この出来事こそが信じるに値する神様からのしるしなのです。

 

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